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誰か世栄を薄くすと謂わんや

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)を読み終えて

 先日の読書会でマックス・ウェーバー(著)大塚久雄(訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店,1989)を読み終えた。

 マルクスの『資本論』と同時並行で読んでいたのもあり、まず第一に思ったのがあまりにも読みやすい、ということである。マルクスが理路整然でない、というわけではないが、それでも比較にならないほどウェーバーの文章は整備されたものである。訳者の大塚久雄も述べているように、『プロ倫』の紙幅の半分近くは注に占められており、そのため細かな情報の多くが注に回されており、本文そのものが簡潔にまとめられている。

 近代資本主義精神の誕生を、一見するとその対極に存在しているかのように見える宗教から解き明かすという逆説的手法についてはいまさらここで書くまでもない。ただ、ウェーバー自身も著書の中でこの逆説をなんども強調しており、「わかってほしい」という極めて人間的な思いが伝わってきた。本文にしろ注にしろ、ところどころで人間味のあふれる記述(その多くが皮肉だが)が見受けられる。

 ピューリタンの脱呪術化、合理化と「文学」の関係について(第二章)の記述がよく理解できなかった。読書会ではこの「文学」とは何を指すのか、ということについて話あったが、いまいちピンとくる結論には至らなかった。

 アンチマルクス主義として書かれた『プロ倫』だが、フレドリック・ジェイムソンが『政治的無意識』でもマルクス主義のなかにウェーバーの思想を組み込もうとしたように、結局のところ「イデオロギー」や「物象化」の概念とは非常に親和性が高い。たとえば、本来は神のための「外物への配慮(=富を増やす経済活動)」であり、そこでは神と自分がある種の関係性を有していたが、「外物への配慮」そのものが目的となってしまい、ついにはそれが「鉄の檻」として我々の固定的な思考様式となり、そこから神は抜け落ちてしまった、とウェーバーは第二章の末尾で述べているが、これは(本来あるはずの物と物との関係性を見失って「物」を自存的なものとして認識してしまうという意味での)「物象化」の結果と言えるのではないか。とはいえ、これもまたマルクス主義の恣意的な理解なのかもしれないが。

 

古典を一つ読み終えたことは、働きながらでも読書をするということに対する自信にもつながった。『資本論』もこの調子で読んでいきたいが、なかなか難航している。