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誰か世栄を薄くすと謂わんや

20230817

最近読んだものについて。

平野啓一郎『空白を満たしなさい』

 ドラマ性の高い作品で、ドラマ部分はとても面白いのだが、「分人」についての説明がクドすぎる。前半から「そういう人間ではない」とか、「分人」の前振りとなる語彙が出てきており、平野の考えについてはエッセイを読んだことがあるから知っていたため、その匂わせの時点で「来たなー」と思っていたのだが、それにしても中盤から後半にかけては胸焼けがしそうであった。

 作者が登場人物の口を借りて話している、という感じがどうしてもしてしまうのが欠点なのか、それともプラトン的な記述のあり方なのか。ただ、プラトンであるならばおそらく「分人」と対立する思想もでてきただろう。プラトンが説教くさくないのは、そこに由来するように思う。

 

 

20210626

資本論』の第一巻第一章〜第三章を読んでいると、マルクスは決して経済活動の根源?(原初的状態)を歴史的に解き明かそうとしているわけではないのではないか、と思うことがある。とくにマルクスが交換の発生を偶然的なものとして取り扱っている(交換の始まりの時点での交換レートは偶然的に決められたに過ぎない、としている)のを見ると、マルクスの仕事をそのように理解したくなる。(とはいえ、マルクスの作業の意義が「歴史化」にあるのは否定しようがない)

 

上記に関連して、思うのは「卵が先か、鶏が先か」というイディオムは、まさに弁証法的なものである、ということだ。物事の発生を解き明かすのは困難だからこそ、このような相反する要素を結合したイディオムによって認識する、という点で。

 

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)を読み終えて

 先日の読書会でマックス・ウェーバー(著)大塚久雄(訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店,1989)を読み終えた。

 マルクスの『資本論』と同時並行で読んでいたのもあり、まず第一に思ったのがあまりにも読みやすい、ということである。マルクスが理路整然でない、というわけではないが、それでも比較にならないほどウェーバーの文章は整備されたものである。訳者の大塚久雄も述べているように、『プロ倫』の紙幅の半分近くは注に占められており、そのため細かな情報の多くが注に回されており、本文そのものが簡潔にまとめられている。

 近代資本主義精神の誕生を、一見するとその対極に存在しているかのように見える宗教から解き明かすという逆説的手法についてはいまさらここで書くまでもない。ただ、ウェーバー自身も著書の中でこの逆説をなんども強調しており、「わかってほしい」という極めて人間的な思いが伝わってきた。本文にしろ注にしろ、ところどころで人間味のあふれる記述(その多くが皮肉だが)が見受けられる。

 ピューリタンの脱呪術化、合理化と「文学」の関係について(第二章)の記述がよく理解できなかった。読書会ではこの「文学」とは何を指すのか、ということについて話あったが、いまいちピンとくる結論には至らなかった。

 アンチマルクス主義として書かれた『プロ倫』だが、フレドリック・ジェイムソンが『政治的無意識』でもマルクス主義のなかにウェーバーの思想を組み込もうとしたように、結局のところ「イデオロギー」や「物象化」の概念とは非常に親和性が高い。たとえば、本来は神のための「外物への配慮(=富を増やす経済活動)」であり、そこでは神と自分がある種の関係性を有していたが、「外物への配慮」そのものが目的となってしまい、ついにはそれが「鉄の檻」として我々の固定的な思考様式となり、そこから神は抜け落ちてしまった、とウェーバーは第二章の末尾で述べているが、これは(本来あるはずの物と物との関係性を見失って「物」を自存的なものとして認識してしまうという意味での)「物象化」の結果と言えるのではないか。とはいえ、これもまたマルクス主義の恣意的な理解なのかもしれないが。

 

古典を一つ読み終えたことは、働きながらでも読書をするということに対する自信にもつながった。『資本論』もこの調子で読んでいきたいが、なかなか難航している。

『資本論』第一章について(未完)

 

本編

 

第一節 商品の二要素 使用価値と交換価値

商品は使用価値交換価値という二つの観点から考察される。使用価値とはその商品がもつ有用性(毛布ならば体を暖めるとか)であり、商品そのものと結びついている。使用価値は商品の生産にかかった時間などによって変動するものではない。交換価値は二つの商品(使用価値)を交換するにあたってどのような量的比率を決めるものであり、商品同士の関係の中で現れる。

 一クウォーターの小麦=aツェントネル鉄

上記の交換比率に従った交換関係があったとする。小麦も鉄も全く異なった使用価値(有用性)をもったものであるのに、どうしてこれらの二つは交換関係を打ち立てることができるのであろうか。小麦の交換価値はいかにして決まったのであろうか。両者をつなぐ性質とは何なのであろうか。この交換関係においては、商品体の使用価値は捨象されている。となればそこに残る属性は(マルクス曰く)労働生産物という属性である。

マルクスはこの交換関係を成立させるのは抽象的人間労働である、という。どちらの商品(小麦・鉄)もただ抽象的人間労働の凝結物という性質のみを共通に有するのであり、この抽象的人間労働の量だけが、その交換比率を定めるのである。この抽象的人間労働によって価値(商品価値)が生まれる。

抽象的人間労働…各々の労働の持つ具体性(誰が労働をするか・どのような労働をするか、とか)を捨象し、ただ労働時間の量にのみ純化された労働のこと。

使用価値が商品(交換の対象)となるのは、それが抽象的人間労働の凝結物としての価値(商品価値)を持つからである。空気のように有用性(使用価値)をもつものが交換の対象にならないのは、それが人間の労働によって生まれているわけではないからである。使用価値の交換比率である交換価値は抽象的人間労働の量によって定まる価値(商品価値)の比率である。

マルクスは、このように商品が商品たる(交換の対象たる)背景に抽象的人間労働を置き、使用価値と交換価値という全く異なる二つの観点を媒介する価値(商品価値)を発見する。

 

第二節 商品に表された労働の二重性

第二節では、商品は、前節で登場した抽象的人間労働と、その対立項である(具体的)有用労働によって生まれるということを説明する(一つのものに二つの相反するものの内在を認識するあたり、きわめて弁証法的である)。

「商品に含まれている労働の二面的な性質は、私が初めて批判的に証明したのである。この点が飛躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのであるから…[78頁]」とあり、この節で説明される労働の二重性がマルクス主義経済学の基盤となっている(らしい)。

 

抽象的人間労働は前述の通り、その労働量に従って商品価値(価値)を形成する。ここにおいては個々の労働の具体性(何をどのように誰が作るか)は捨象されており、ただその労働量だけが重要なのである。そしてこの量が商品の交換比率である交換価値を生むのである。

一方、有用労働という労働が存在する。亜麻布の使用価値を生むには機織りという具体的な労働が必要であり、逆にすれば、具体的な機織りという労働が亜麻布という使用価値を生むのである。この具体的な労働を有用労働と呼ぶ。これらは個々別々に特殊性を備えた労働である。有用労働が違えば、生み出されるものも異なるため、使用価値は異なる。我々人間は同じ使用価値(モノ)を交換することは絶対にない。同じものを交換することに意味はないからである。となれば、有用労働の差異が交換を生み出すと言える。モノは交換されることで商品となる。有用労働の差異が使用価値の差異を生み、使用価値の差異が使用価値を交換される「商品」たらしめるのである。

抽象と具体という二つの相反する属性のもと、「商品」は存在する。

前節の使用価値と価値(商品価値)からさらに一歩踏み込んで、それら二つの価値形態がどのように生まれるか、ということを労働の二重性から説明したのが第二節である、というふうに理解した。

 

なお、この節には「私的労働」と「社会的分業(社会的労働)」というこれまた相反する二つの労働が書かれている。この二つがどのようにこの章で響いているのか、そもそもここで何が言いたいのか、じつはいまいちわからないが、とりあえずメモ程度に中途半端な理解をまとめておく。

労働は私的な原理で営まれる(◯◯が欲しいとか)から私的労働だと言える。個人にしろ企業にしろ、何かを何かのために作る。この「ため」は基本的には根源的には自分(個人・企業)の「ため」であるから、労働というのは一貫して「私的」なものなのである。一方で、労働というのは単一で存在することはない。全ての労働は社会的分業であるし、また同時に全ての私的労働はほかの私的労働(ないしは他の私的労働の生産物)と交換の関係をもつ。私的労働が単一で存在することはあり得ない。だから労働は社会的労働だとも言える。

 

第三節 価値形態または交換価値

(ビビるくらいここから難易度が上がる。)

 商品には実在的で具体的な形態である自然形態と、商品そのものをどれだけ触れても知ることのできない、抽象的な形態である価値形態がある。自然形態は各商品において異なる(砂糖も鉄も、衣服もみな異なる形態であるのは言うまでもない)。価値形態は、抽象的人間労働の対象物であり、各商品が商品が他の商品と相対することで認識され(つまり価値形態は社会的なものである)、価値形態は各商品においてその大きさこそ異なるが、異なる自然形態をもつ商品同士を通約可能にし、交換を可能にさせる形態であることがわかる。商品は自然形態が異なるからこそ交換されるのであり、価値形態が共通だからこそ交換され得る

商品の価値形態は通常価格という形で表されている。価値形態はつまるところ貨幣形態なのである。

 第三節の目的は貨幣形態の発生を明らかにすることにある。価値形態が異なるものの間において見出されるものであるため、最も単純な商品同士の価値関係(一対一の交換関係)から出発し、単純な価値形態が複雑な貨幣形態へとどのように発展していったか、ということを描く方法を採る。この発展は「A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」「B総体的または拡大せる価値形態」「C一般的等価形態」「D貨幣形態」という四つの段階によって説明されている。

 

A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

 この価値形態は以下のように表すことができる。

亜麻布20エレ=上衣一着(x量商品A=y量商品B) 

亜麻布20エレ上衣一着に値する。(x量商品Aはy量商品Bに値する)

 マルクスはこの形態において商品A(亜麻布)は相対的価値として、商品B(上着)は等価として機能しているという。商品Aは「に値する」という商品Bの等価としてのはたらきを得ることによって、相対的な価値を得る。相対的価値と等価という二つの価値形態はこのことからわかるように、お互い依存し合っており、たとえばこの二商品の関係を逆転させると、商品Bが相対的価値に、商品Aが等価へと互いに転化する。

思うにここで重要なのは、マルクスが「x量商品A=y量商品B」という数式を「x量商品Aはy量商品Bに値する」という言語へと置き換え、主語と述語の関係として両商品を捉えなおすことによって「相対的価値形態」「等価形態」という価値の二つの形態を導き出していることである。

 

亜麻布20エレ=上衣一着または二十着またはy着

 このような表現の前提には亜麻布と上衣とが価値の大きさとしては同一単位の表現であり、同一性質のものであるということがある。つまり、基礎には亜麻布=上衣がある。となると、価値関係を根本から捉える際、量的側面はいったんは度外視しする必要がある。

 さて、この質的に等しいとされた二つの商品は、実のところこの関係の中では異なる役割を演じている。「相対的価値形態」と「等価形態」という二つの役割である。この亜麻布=上衣という価値関係においては、亜麻布にとって等価としての上衣と亜麻布が関係づけられるよことによって、亜麻布の価値のみが表現されているのである。このことから、価値形態は抽象的人間労働という見方によって見いだされるのではなく、商品自身と他の商品との関係によって現れる、といえる。亜麻布が上衣に等しい、とされることではじめて抽象的人間労働が問題になる(「亜麻布にひそんでいる抽象的人間労働は上衣に潜んでいる抽象的人間労働に等しい」)。つまり交換(社会関係)は等価労働価値説に先んずるものなのである。各商品に潜んでいる労働は、他の商品との関係に立つことによってはじめて、抽象的人間労働へと制約されることになるのだ。

 次のようにも言える。亜麻布の「価値」という抽象的なものは、上衣という具体的な商品によって表現される。これを最初に出した語で言うならば、亜麻布の(相対的)価値形態は、上衣の自然形態(使用価値)によって示されるのである。

価値関係を通して、商品Bの自然形態は商品Aの価値形態になる、…商品Aが商品Bを価値体として、すなわち人間労働の体化物として、これに関係することにより、商品Aは使用価値Bをそれ自身の価値表現の材料とするのである。[岩波文庫版98頁]  

*1

 

 

商品Aの「価値(商品価値)」は、商品Bの使用価値に対置されることによって決まる。商品Aと使用価値Bが対置されることに寄り、はじめて両者の共通項としての抽象的人間労働による「価値(商品価値)」が浮かび上がるのである。見方を変えれば、等価のつとめをなしている商品の使用価値がその反対物(ここでは商品A)の「価値」の現象形態となっている。(等価形態の第一の特性)

等価のつとめをなしている商品(ここでは商品B)はつねに抽象的人間労働の体現として働くと同時に、一定の有用な具体的労働の生産物である(だから使用価値がある)。このことから、等価形態においては具体的労働が抽象的人間労働の現象形態となっていることがわかる。(等価形態の第二の特性)

(等価形態の第二の特性から、第三の特性が導き出される。抽象的人間労働は取り換え可能な社会的労働である。具体的労働は私的なものであるが、等価形態において私的な労働が社会的労働の現象形態になっていると言える。)

商品は使用価値であると同時に交換価値である、というよりも正確に言えば、商品は使用価値または「価値」(商品価値)である。商品に内在するこの二つの価値の対立は、二商品間(商品A=商品B)の外的対立によって現象していると言える。

【内的対立】使用価値

      「価値」(商品価値)

【外的対立】商品Aの自然形態(商品Aの使用価値として存在する)…相対的価値形態    

      商品Bの自然形態(商品Aの「価値」を示す)…等価形態

ある商品一つをどれだけ考察しても、この価値の内的対立は発見できない。内的対立の現象形態たる外的対立によってのみ内的対立は把握できるのである。

 

単純な価値形態(商品A=商品B)の商品Bにおける表現は、商品Aの価値(商品価値)を商品Aの使用価値から区別する。しかし単純な価値形態は、商品をそれ自身と違った個々の商品種の何かに対する交換関係におくのみであり、射程が狭い。

個々の単純な価値形態というのはおのずからより完全な形態へと移動していく。単純な形態においては商品A=商品Bという二者関係だけが表現されるが、完全な形態においては第二の商品は必ずしも商品Bに限らなくともよくなる。

つまり、商品A=商品B

        =商品C

                        =商品D…

となる。価値表現はこのように列をなす。とはいえ、これらが=で結ばれるためには、商品の数量による帳尻合わせが重要になってくる。(→B 総体的または拡大せる価値形態

 

B 総体的または拡大せる価値形態

 

C 一般的等価形態

D 貨幣形態

 

(以下随時更新)

 

 

*1:ここでは具体が抽象を生み出している。それは具体的なるモノを抽象化する、といった知的プロセスとは全く異なるのである。「生み出す」という二項対立の間に生じる運動を哲学では弁証法というのだろうか。